垂井宿から萩原宿
(1)垂井宿〜大垣宿
11月12日(金) 曇り
掛川付近で新幹線を止めた昨夜の豪雨は小雨
となって始発から平常運転に戻り、そのあた
りを通過したとき車窓から富士山こそ望めな
かったものの雨はすっかり上がっていた。
名古屋駅で在来線の東海道に乗り換え、午前
11時垂井駅着。直ちに相川を越えて中山道
との追分へ向かった。
かつて左から来た中山道を今日はここから右
へと旅立つ。程なく随分歯抜け状態ではある
が美濃路にはここしか残っていない松並木を
通過した。
杭瀬川に架かる塩田橋の常夜燈まで来れば大
垣宿は近い。
左の写真は出発地の垂井宿追分、軽くマウス
を触れれば美濃路の終点宮宿の「七里の渡し」
へ一足飛び。
垂井宿追分道標 美濃路と中山道の追分にあり、 「是よ里 右 東海道大垣みち 左 木曾街道たにくミみち」 と彫られている。宝永6年(1709)建立。 |
松並木 美濃路に残る唯一の松並木 |
塩田橋の常夜燈 往時は船運で伊勢参宮の旅に出た。 |
(2)大垣宿〜墨俣宿
大垣宿は戸田氏10万石の城下町、芭蕉が元
禄2年(1689)「おくの細道」の結びを
迎えた土地である。
揖斐川筋を通じ桑名と結ぶ舟運により発展し
た。船町常夜燈は舟運の安全を祈願し建立さ
れた。
街道は町中で目まぐるしく右折を繰返す。
本陣跡に続いて問屋場跡があった。
今日は小野小学校の所で終り。近くの樽見鉄
道の東大垣駅に出た。1時間に1〜2本しか
来ない1両編成の気動車を気長に待って大垣
駅へ行く。
大垣駅前のホテルにチェックインした後駅前
通りを散歩した。大通りはたまたま「おおが
き芭蕉生誕360年祭元禄芭蕉回廊 大垣」
の最中、残念ながらもう夕方で見られず、ラ
イトアップした大垣城にのみ立ち寄った。
写真は今は竹島会館となっている大垣宿本陣跡。
11月13日(土) 晴
今日は東大垣駅で降りたち昨日の続きを歩く。すぐに揖斐川の土手に出合う。ここは「佐渡の渡し」があったところ、
いまは大きな常夜燈がその名残を留めている。少し上流に架かる新揖斐川橋を渡る。結神社、観音堂を過ぎると墨俣
宿が近い。
船町常夜燈 元禄年間(1688〜1704)船町中組総代 谷九太夫が船運の安全を祈願し建てたと いわれる。明治20年(1887)再建 |
問屋場跡 街中の道を幾つか曲がった角にあった。 |
大垣宿内の道標 最近建てたものと思われる。 |
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樽見鉄道東大垣駅 街道からは10分もかからない所にあるが、 道路や鉄道の小さな隧道を3つもくぐっていく。 |
樽見鉄道車両 乗客は学生が大部分だった。中山道を歩いたと き美江寺宿手前で見た鉄道だが、その時これに 乗る機会ができるとは思ってもみなかった。 |
佐渡(さわたり)の渡しの常夜燈 揖斐川の渡しがあったあたりの堤にある。 嘉永7年(1854)建立。 |
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揖斐川 新揖斐川橋から北東方面を望む。 |
結神社 創建は嘉応年間(1169)と伝えられ、縁結び・ 諸願成就に霊験あらたかで遠国からも大勢 参詣者があったという。 |
観音堂 本尊は十一面観世音菩薩、以前は結神社の 境内にあったが河川改修でこの地に遷した。 縁結びと安産のお守りとして参詣者が絶えない。 |
(3)墨俣宿〜起宿
東結の一里塚あたりの土手道は眺めも展け、
ホオジロが姿を見せるのどかな風景を堪能し
て歩いた。
間もなく行く手に墨俣城が見えてきた。ご存
じ秀吉の「一夜城」である。
琉球使節通行記念灯籠のある小さな津島神社
を過ぎる。
長良川土手近くに墨俣宿脇本陣の家があり、
続いて本陣跡の碑に気付く。
長良大橋を渡り、東小熊と不破一色の両一里
塚跡間にある間の宿跡、金比羅山大権現の常
夜燈を見て、子守り地蔵を拝む。
やがて木曽川、濃尾大橋を渡る手前ひっきり
なしに車が通る土手に「起渡船場石灯台」が
建っていた。
東結の一里塚跡 明治43年(1910)建立の馬頭観音と一里塚 跡の碑。一里塚はこの土手の上、南北にあった。 |
墨俣宿町並 | 津島神社 陰っていて判りくいが、右側に琉球使節通行 記念灯籠が建っている。寛政3年(1791)琉球 使節の帰国にあたり一行の毛延柱という者に 常夜燈への揮毫を頼んだ。 |
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墨俣宿脇本陣跡 | 墨俣宿本陣跡 本陣は明治に至るまで13代に亘り沢井家が 勤めた。 |
長良大橋 | ||
東小熊一里塚跡 たまたま尾西市制50周年記念の美濃路 ウォークの開催中で、ここは休憩地点に なっていた。 |
間の宿 墨俣宿と起宿の中ほどにあり、通行した諸侯 の休憩地ととなっていた。ちなみに両宿間は木曽 川を挟み2里17町余(9.7Km)あって、 垂井宿・大垣宿間に次いで長い。 |
金比羅山大権現 側面に漢詩が彫られている。 「南山之石磨治為燈豈唯不朽庶其永明 (南山の石 磨き治めて 燈と為す あに唯に 朽ちざるのみならんや 其の永明を庶(こい ねが)う。)文政九年 龍集丙戊(1836)夏六月後藤機并書」 後藤機(安八郡森部の人)は頼山陽の弟子。 |
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不破一色一里塚 正木小学校敷地にある。 |
子守り地蔵 衣裳持ちの地蔵、台石の正面には秋葉山 愛宕山大権現の銘文がある。 |
起舟渡しの道標 ここで街道はいったん途切れる。 「右 いせみち 左 おこし舟渡」とあり、 左側面には寛延三年(1750)医師講中と 彫ってある |
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起渡船場石灯台 明和7年(1770)建立。伝承によれば 竹鼻町伊勢屋の祖先の力士が、ある夜起町 から木曽川を渡り堤防に上がろうとしたが暗く、 道も方角も判らず大変困った。そこで堤防の上 に石灯台と油代として田2反を寄付したという。 |
木曽川 濃尾大橋からの眺め。越えれば起宿。 |
(4)起宿〜萩原宿
起宿側には北から定渡船場、宮河戸、船橋河渡と3ヶ所の
渡船場があった。大河木曽川を渡るのに旅人は渡船を利用
したが、将軍や朝鮮通信使は近隣から「寄せ船」と称した
多くの舟を集めて船橋を作り渡ったという。
起宿本陣、問屋場跡は碑のみ残り、脇本陣跡は尾西市歴史
民俗資料館となっている。美濃路街道を歩くにあたりこの
資料館から事前に詳細な地図をいただいて随分役だった。
このあたりあるいは家内工業の毛織工場だろうか、同じよ
うな造りの小さな建物が何カ所も目についたがどの建物に
もそれを示す看板は全く見当たらない。
駒塚道道標、美濃路で唯一両側に塚が残る冨田一里塚(左
の写真は西塚)を過ぎるとまもなく萩原宿だった。
起渡船場跡 起宿にあった3カ所のうち北側の定渡船場跡。 ここは金比羅社境内で鳥居の右側に大きな 常夜燈がある。 |
本陣跡・問屋場跡 | 脇本陣跡 今は尾西市歴史民俗資料館となっている。 |
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駒塚道道標 駒塚道は美濃駒塚の尾張藩家老石河佐渡 守が名古屋へ参勤するために開いた。 右は美濃路。 |
冨田一里塚(東塚) 両塚とも榎が植えられている。国指定 史跡。石碑は昭和15年に文部省が建 てたもので一里塚の説明と扱いの注意 が書いてある。 |
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