宿駅のデータは「中山道宿村大概帳」による。人口は天保14年(1843)調査。
木曾海道六拾九次之内洗馬 広重画 人口 661人 家数 163軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 29軒 |
滝神社 洗馬宿のはずれにある。本殿は鳥居の所から沢沿いに400mほど入った薄暗いところにある。「村社瀧社」と彫った石標が建ち、その側面には「神饌幣帛料供進神社」と書かれている。 |
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木曾海道六拾九次之内本山 広重画 人口 592人 家数 117軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 34軒 |
本山神社 宝暦6年(1756)刊行の「岐蘇路安見絵図」には「八まん」と書かれているそうである。宿はずれの丘の上にある。 |
熊野神社 うっそうとした杉木立の中にある。手前の石標にも「神饌幣帛料供進神社」と彫ってあるのがわかる。 |
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諏訪神社 文化2年(1805)刊行の「木曽路名所図会」に「諏訪社ー一村此神をもって生土神とす」と書かれた神社という。 |
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木曾海道六拾九次之内贄川 広重画 人口 545人 家数 124軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 25軒 |
諏訪神社 漆器の町平沢の手前にある。本殿は寛永14年(1637)の建立。諏訪大社と同様に七年毎に御柱祭が行われ、境内に4本の御柱が建つ。 |
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岐阻街道奈良井宿 名産店之圖 英泉画 人口 2,155人 家数 409軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 5軒 |
二百地蔵 杉並木の江戸初期の中山道沿いに建つ。手前の石仏は明治初期の国道開削や鉄道敷設の際に奈良井宿周辺から集めたものという。 |
大宝寺マリア地蔵 天正年間(1573〜92)奈良井治部少輔義高の創建、大安和尚開基と伝えられる大宝寺にある。膝の上の子供が十字架を表す蓮を持っている。 |
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木曾街道薮原 鳥居峠硯ノ清水 英泉画 人口 1,493人 家数 266軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 10軒 |
薮原神社 文政10年(1827)建立、明治4年(1871)「熊野権現」から名を改めた。 |
極楽寺 臨済宗の古刹。アララギ派の歌人たちが修養のため訪れたことでも知られている。宝蔵庫があり藤田嗣治の天井画、雪舟、応挙などの書画がある。また小堀遠州流の庭園が有名。 |
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木曾海道六拾九次之内宮ノ越 広重画 人口 585人 家数 137軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 21軒 |
徳音寺 山門は享保8年(1723)犬山城主が寄進したという。木曽義仲、巴御前、今井兼平の墓がある。義仲が母の小枝御前の菩提を弔い、平家追悼の祈願寺にし、後に義仲の戒名「徳音院・・・」から今の名に改めた。 |
林昌寺 治承4年(1180)中原仲三兼遠が開基した。墓が本堂脇にある。兼遠は父の義賢を悪源太義平に殺された駒王丸、後の木曽義仲を密かに育てた。 |
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手習天神 中原兼遠が義仲の学問の神として勧進したものと伝えられる。 |
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木曾海道六拾九次之内福し満 広重画 人口 972人 家数 158軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 14軒 |
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木曾海道六拾九次之内上ヶ松 広重画 人口 2,482人 家数 362軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 35軒 |
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木曾海道六拾九次之内須原 広重画 人口 748人 家数 104軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 24軒 |
定勝寺 永享2年(1430)木曽川畔に開かれたが慶長3年(1598)この地、木曽義在の館跡に移った。山門、本堂、庫裡とも桃山時代の建築様式を残す。庭園が美しかった。 |
岩出観音堂 懸崖造り。今の堂は文化10年(1813)の建築。昔ここに草鞋を売る老人がいて、武士が馬の沓を求め片足分しかなくやむなくそれを買い立ち去った。老人は急ぎもう片方を作り追いかけ武士に渡したところ、馬頭観世音菩薩と書いた木片を貰った。老人はこれを観音像の胎内に入れ堂に祀ったという言い伝えがある。 |
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天長院 文禄2年(1593)創建。入口石段近くにあるマリア地蔵が有名である。 |
天長院のマリア地蔵 子供を抱いた子育て地蔵だが紐が十字になっているのでマリア地蔵と呼ばれている。 |
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木曾路驛野尻 伊奈川橋遠景 英泉画 人口 986人 家数 108軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 19軒 |
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木曾海道六拾九次之内三渡野 広重画 人口 594人 家数 77軒 本陣 1 脇本陣 1 旅籠 32軒 |
かぶと観音堂 木曽義仲が妻籠砦の鬼門にあたるこの地に小祠を造り、兜の八幡座の観音像を行基が彫ったという仏像の胎内に収め祀ったのが始まりという。小牧・長久手の戦いの折り木曽義昌がここに祈願し妻籠砦を守ったという故事が残る。 |
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