歩いていると句碑や歌碑を随所で見かける。長らく旅の空に過ごし旅先で逝った松尾芭蕉の句碑 も中山道の道筋でいくつも探せた。美濃や木曽は「野ざらし紀行」や「更科紀行」の舞台なのだ。 もっとも、句碑はそれを詠んだところにのみあるとはいえない。情景が似ているという理由で選び 建てたものもある。また次のようなこともあった。桃隣の「陸奥鵆」に芭蕉が奥州を旅したとき那 須の余瀬で翠桃を訪ねたときの「秣負ふ人を枝折の夏野哉」の句が載っている。かつて甲州街道を 歩いたとき駒飼宿でこの句碑を見つけた。地元の歴史研究家の小冊子には、天和2年の江戸の大火 で深川の芭蕉庵を焼け出され落つき先の甲州で詠んだものとしている。ただし地元の大和村村誌で も「駒飼石の話」の中でこの句を取上げているが、「那須にもこの句碑がある。・・・ここで芭蕉 が作ったものかどうかはわからない」とも述べている。いずれにしても句碑や歌碑には文字や内容 が難しく、家へ帰ってから調べないと解らないものもあったが、それを詠んだ当時に思いを馳せさ せられたものである。i以下ここに載せた数人の俳人・歌人等の略歴を簡単に記述した。 |
1.松尾芭蕉 正保元年(1644)〜元禄7年(1694)、江戸前期の俳人。伊賀国上野で苗字を許された地侍級の農民の 家に生まれた。言外の余情を重んじたさび・しおり・かるみなどで示される幽玄閑寂な蕉風(正風) 俳諧を確立した。自然と人間を鋭く見つめ、それまで機智や滑稽を本質とした俳諧を文学として鑑賞 に耐えられるものにまで高めている。 別号は宗房、桃青など。寛文12年(1672)「貝おほひ」を編集、延宝8年(1680)江戸深川に隠棲、翌 年門弟に芭蕉の樹を贈られ芭蕉庵と称した。天和2年(1682)大火で類焼、甲斐谷村へ流寓、翌3年 其角編「虚栗」刊行、貞享元年(1684)帰郷の旅に出て「冬の日」が成る。この旅の記が「野ざらし紀 行」。翌年鹿島観月の旅に赴き「鹿島紀行」を、さらに「笈の小文」の旅、貞享5年(1688)に木曽へ 「更科紀行」の旅に赴き、元禄2年(1689)曽良と「奥の細道」の旅に出た。同3,4年は上方にあっ て「ひさご」「猿蓑」刊行の後援指導、同5年新築した芭蕉庵に入り、同7年「炭俵」の後援指導に 当たった。その年9月大阪へ向け出発し体調を崩して同地で客死した。 2.山口誓子 明治34年(1901)〜平成6年(1994)、京都市生まれ。本名新比古。昭和23年「天狼」創刊、主宰。 句集に「凍港」「遠星」ほか。高浜虚子に師事。 3.山口青邨 明治25年(1892)〜昭和63年(1988)、盛岡市生まれ。本名吉郎。昭和5年「夏草」創刊、主宰。 句集に「雑草園」「乾燥花」ほか。 4.正岡子規 慶應3年(1857)〜明治35年(1902)、伊予松山生まれ。名は常規。22年時鳥の句40〜50章を作 り子規と号した。29年カリエスにより長い闘病生活に入るも精力的に活動を続け、30年雑誌「ホ トトギス」第1号を発行。蕪村の天明復興以来漸次堕落した俳句を匡救し、俳文学史上芭蕉蕪村と共 に赫奕たる功績を遺した。子規によって俳句・短歌は近代文学としての位置を獲得したといえよう。 5.十返舎一九 明和2年(1765)〜天保2年(1831)。江戸後期の戯作者。駿河府中生まれ。名は貞一。寛政6年(17 94)書肆蔦屋重三郎の食客となり、翌年以降黄表紙を出版。極めて多作、読本(よみほん)、洒落本、 合巻、人情本なども出したが滑稽本を得意とし、「東海道中膝栗毛」などが代表作。微温的で平易な 作風で読者の好みを敏感に知り、当り作が出ると次々に続編や同工の作品を出した。 6.和宮内親王 弘化3年(1846)〜明治10年(1877)。仁孝天皇の第八皇女。名は親子(ちかこ)。嘉永4年(1851) 熾仁親王と婚約。文久元年(1861)内親王宣下。翌2年政局激動のなかで公武合体のため将軍徳川家茂 に降嫁させられた。同年10月20日、16歳の和宮は京都の桂宮邸を発って中山道を下って11月 15日江戸九段の清水邸に到着した。総勢3万人の大行列だったという。慶應2年(1866)家茂死後剃 髪して静寛院宮と称した。幕府滅亡の際、官軍の江戸攻撃中止、将軍徳川慶喜の助命、徳川家の存続 を再三朝廷に歎願した。 |
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1.芭蕉